ムーミンママの台所
2019年 10月 15日
例えば、突然魔法使いが現れて「何でも欲しいものを言ってごらん?」と言われたなら、
迷わず「ムーミンママの台所!」と答えてしまう。
ムーミンママの台所はきっといい匂いがして、使い込まれ、磨き上げられたお鍋やフライパンが並んでいるはずだ。
コンロの上ではいつもコトコトと何かが煮込まれていて、
赤と白の縦じまのエプロンをきゅっとしめたムーミンママが、楽しそうにお鍋の中をかき回している。
息子のムーミンやその友達のスニフが「冒険に行く」と言えば、
すぐさまバスケットにサンドイッチやりんごを詰めて、ジュースまで揃えられる台所。
誰かがお腹を空かせて顔を覗かせたなら(それが、たとえ家の者でなくても)、
手作りのクッキーとお茶がお盆にのって運ばれてくるような台所。
棚いっぱいのこけもものジャムを、
「いったい誰がこんなに食べるんだい?」と家族に不思議がられながらたくさんこしらえて、
保存できることのできる台所(それもきちんと、冬の間に訪れるお客様のために、
息子のムーミンが振る舞って全部なくなるのだけれど・・・)。
そんな台所が本当に欲しい。
さらにムーミンママは、海辺で拾ってきた貝殻で花壇を造ったり、
道端の花を持って帰り、その花を自宅で増やしたり、
自分の畑で大きなカボチャを育てたりできる一流のガーデナーでもある。
そのうえ、どんなお客様が来てもパンケーキを振る舞い(それが飛行おにでも)、
見知らぬ人を家に泊めてあげたり、風邪をひいたムーミンにくしゃみの薬をこしらえたりもする。
子どもの頃は、ムーミンたちの冒険や、ちびのミィの奔放さ。スナフキンの大人びた感性や、
その他のムーミン谷の住人たちの物語が楽しくてページをめくったムーミンシリーズだったけれど、
大人になって開いてみたなら、
ムーミンママが紡ぎ出す、物語のそこかしこに散りばめられた毎日の暮らしのディテールを掬い上げることが
楽しくて仕方がなくなっていた。
ところが私はと聞かれたら、日々に忙殺されて、
ムーミンママの暮らしぶりからは程遠い場所を歩いている。
丁寧に毎日を営みたいとは思っている。
けれど、「便利」や「時短」と言われると、ついつい試してみたくなってしまっている自分がいる。
そんな私は、便利や時短に慣れすぎていて、もう麻痺してしまっているのかもしれない。
当たり前のように電子レンジで「チン」を繰り返し、
当たり前のようにスイッチ一つでごはんも炊ければ、パンも焼ける。
食器だって自分で洗わない選択肢があるし、もっと言えば「台所に立たない」という選択肢もある。
それなのに私たちは「忙しい」「時間がない」と口癖のように言ってしまっているのだ。
思えば、冷蔵庫や洗濯機がなかった昔の人の方が絶対に忙しかったはずなのだけれど、
「現代人は忙しい」とみんなが思っている。一日はみんな二四時間なのに・・・・・・。
忙しいと思い込んでしまった私は、スイッチに頼る台所の主になっていた。
なぁんにも考えずに「便利」に溺れてしまった私は、いつしか何にも考えることができなくなっていた。
例えば「白菜」とスマホに打ち込めば、白菜のレシピが無数に出てくる便利さに、
目の前の白菜という野菜がどんな野菜かを思い考えることすら、初めから頭には浮かばなくなっていた。
ところが、大人になって開いたムーミン童話の中には、台所仕事を心から楽しむムーミンママがいた。
採れすぎたコケモモを山のようにジャムにし、その日の収穫でメニューを考えて、
鼻歌を歌いながら料理をする。
フィンランドのどこかにあるその台所は私に、「日常茶飯事以上に大切なことが、
いったいこの世にいくつあるの?」と問いかけていた。
もしかしたら、ただ生きていくためにはコケモモのジャムは必要じゃないのかもしれない。け
れども、「生きていく」ことを心から実感し、堪能するためにはコケモモのジャムは必要なのだ。
だから私は、生きていることを心から堪能するために、ムーミンママの台所が欲しい。